北谷町平和祈念祭

北谷町民平和の日とは

 本町では、先の大戦で多くの町民が生命と財産を失い、その上終戦時には、町の全域が米軍によって占領されました。
かろうじて生き延びた町民は、自らの土地に帰ることすら許されず、様々な苦難を乗り越え、1946年(昭和21年)10月22日、ようやく町内の一部に居住が許され、町民は焦土と化したふるさとの復興に努めました。
 平和なふるさとの復興に向けて踏み出した、記念すべき第一歩目である、10月22日を「北谷町民平和の日」と条例で定め、平和であることがまちづくりの原点であるとの考えのもと、様々な平和の関する取り組みを行っております。

【マンガでわかる北谷町民平和の日】

北谷町長 渡久地 政志

ご挨拶

北谷町では「平和であることがまちづくりの原点である」との考えの下、戦後、ふるさとへ帰ることが許された10月22日を「北谷町民平和の日」として条例を制定するとともに、同日から同月末日までを「平和推進旬間」として規則を
定め、期間中に「平和祈念祭」を開催しております。
 先の大戦では、多くの町民が生命と財産を失い、その上終戦時には、町の全域が米軍に占領されたことから、かろうじて生き延びた町民は、生まれ育った土地で生活を続ける事すら許されませんでした。

 そのような中、終戦の翌年1946年10月22日に、町内の一部に居住が許されたことで、焦土と化した故郷の復興に初めて着手いたしました。
 町民は貧しい暮らしの中、家屋の建設、耕作地の開墾などの重労働に耐えながら、懸命に働き、町の復興を成し遂げております。
 北谷町発展の礎を築いていただきました、先人達に心から敬意を表し、これまで築き上げてきた繁栄を、次の世代に継承することはもちろん、命の尊さや平和の大切さを語り継いで行くことが、私どもの重要な責務であると考えております。
 すべての町民が、世界平和への願いを込めた「北谷町民平和の日」と「北谷町非核宣言」を尊重し、戦争の実相を正しく把握するとともに、平和思想の普及・啓発と、平和の尊さ、命の大切さを、親から子、子から孫へと継承し、「戦後100年を見据え 平和で誇りの持てる“ちゃたん”」を目指して、町民が平和を愛し、心豊かに安心して暮らせるまちづくりを皆さんとともに推進してまいります。

令和5年10月22日
北谷町長 渡久地 政志

北谷町ピースメッセンジャー

 北谷町では、令和2年度から、平和の尊さ、命の大切さを未来に受け継ぎ、本町の平和推進に積極的に携わる人材を「北谷町ピースメッセンジャー」として認定しております。
 第1回に認定されたのは、令和2年度広島・長崎平和学習派遣者8名の皆さんです。認定された皆さんは、新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受け、県外派遣は叶いませんでしたが、北谷町のあゆみや沖縄戦に関する学習、フィールドワーク等を行い、平和祈念祭では、学習成果や平和メッセージの発表を行っております。
 過去の戦争体験を風化させることなく、次世代に正しく継承する人材として町の平和推進に携わっていることから、「北谷町ピースメッセンジャー」認定されることとなりました。
 認定者からは「普段の生活の中に沖縄戦の跡があることを知った」「平和について発信ができるよう頑張っていきたい」等の声がありました。


北谷町平和推進事業

 人間社会においては、平和がすべての原点であり、まちづくりの原点でもある。
 沖縄県民は、第二次世界大戦で、日本における唯一の悲惨な地上戦を体験し、多くの尊い人命を失ったために、平和を求める思いはことのほか強いものがある。
 本町では、1985年(昭和60年)に核戦争から人類滅亡を拒むものとして「北谷町非核宣言」を高らかに謳い、 世界最初の被爆国民として、永久に核を否定し、核廃絶と恒久平和のために全力をつくすことを宣言した。
 また、1946年(昭和21年)10月22日は、北谷町民が戦後初めて村に帰ることを許された日である。この日を北谷町民の戦後の初日、平和なふるさとの建設に向けて踏み出した記念すべき第一歩の日と位置づけ、10月22日を「北谷町民平和の日」として1995年(平成7年)条例で制定した。
 この条例に基づき、北谷町では多種多様な平和推進事業を開催している。