1.米軍上陸地モニュメント
所在地:北谷町字砂辺1番(砂辺馬場公園内)
築造年月日:1991年4月2日
北谷町は1991年4月1日、平和祈念のシンボルとして米軍上陸のモニュメントを建立した。「多くの町民がこの碑を訪れ、沖縄戦の悲惨さ、平和の大切さ、命の尊さについて語りあう場所にしていきたい」との願いからだ。レリーフには壕(ガマ)の中で死んだ子供を抱え、嘆く母親らしき人物や突進する戦車や兵士の姿が描かれている。
碑文
第二次世界大戦米軍上陸地モニュメン卜
1945年4月1日に米軍は、海面を黒く覆い尽くす戦艦・駆遂艦計219隻から山の原形を破壊するほどに熾烈な艦砲射撃後、北谷西海岸から上陸した。日本で唯一の悲惨な地上戦は、一般住民をも巻き込み沖縄県全土で20万余りの尊い人命を奪い去った。
私たちは、沖縄戦の体験と実相から、戦争の不条理さと残酷さを正しく次代に伝え、平和の理念として戦争につながる一切の行為を否定する。そして、平和憲法の人間尊厳の精神に立脚した未来永劫の平和な北谷町の建設を図るため、沖縄戦の風化を許さない歴史的碑として、米軍上陸地碑をここに建造する。
2.クマヤーガマ
所在地:北谷町字砂辺50番
立 地:標高7mほどの低く平たい石灰岩台地が浸食された鍾乳洞
形 態:全長約40mの3つの洞穴からできている
砂辺地区にあるクマヤ洞穴遺跡。標高7mほどの低く平たい石灰岩台地が浸食されてできた鍾乳洞で、全長約40mの3つの洞穴からできている。条痕文土器が発掘された事から、縄文前期に相当する5千年前のものとされている。メノウや貝製腕輪、中国青磁・白磁、ガラス玉なども多く出土したという。
砂辺の人々の避難壕
クマヤーガマは砂辺部落の人々の命の守り神である。米軍の10・10空襲(1944年10月10日)やそれ以降の米軍のすさまじい艦砲射撃、空からの機銃掃射などの際、砂辺部落の人々はいち早く同ガマに避難し、砲撃から身を守った。
砂辺の人々は米軍上陸の数日前に全員が同じガマを出て、山原などに避難したため、ガマの中で戦死者は一人もでていない。
3.非核宣言の塔
所在地:北谷町字桑江467番1(ちゃたんニライセンター敷地内)
築造年:1986年
1985年3月、北谷町は核戦争から人類の存亡を拒むものとして「北谷町非核宣言」を高らかに謳い、世界最初の被爆国民として、永久に核を否定し、核廃絶と恒久平和のために全力を尽くすことを宣言した。
この宣言を受け、翌年8月15日に、北谷町非核宣言の塔を建立した。
碑文
小高い緑の丘に三本の柱が天高くそびえ礎では人が支えている様子は人類未来永劫の平和を願い核を「もたず」「つくらず」そして「もちこませず」の非核三原則の厳守と核の破壊力の恐ろしさ及び緊張感を表し、また人間一人ひとりが平和の礎となる決意を表し併せて人が人としての尊厳をもって真善美を象徴し戦争を拒み平和を希求する祈念の塔である。 1986年8月15日北谷町
4.被爆クスノキ2世
所在地:北谷町字桑江467番1(ちゃたんニライセンター敷地内)
植樹年月日:2004年10月22日
長崎県で被爆したクスノキの種から育てた苗を植樹し、育てています。
長崎からの平和のメッセージ・被爆クスノキ2世
1945年8月9日、午前11時2分長崎市に人類初のプルトニウム型原子爆弾が投下されました。死者7万4千人、負傷者7万5千人、当時の長崎市の人口の約2/3の人が原子爆弾の犠牲となりました。
このような中にあって、被爆地から約800mにあった山王神社の2本のクスノキも大きな被害を受け一時は生存も危ぶまれましたが、焼けただれた山野の中でその後みごとに樹勢を盛りかえし、原爆の悲劇から立ち上がろうとする人たちに強烈な感動を与え復興の原動力となりました。
現在は長崎市の天然記念物に指定され、地域の人々や子供たちによって、原爆の恐ろしさと生命の尊さを伝えるものとして大切に保存されています。
ここに植樹したクスノキは、被爆したクスノキの種から育てたものです。21世紀は、核兵器のない平和な自然環境を大切にする世紀にしたいと願っています。
2003年10月22日北谷町
5.平和之塔
所在地:北谷町字吉原402番
建立:1954年
1950年代、当時の遺族会々長の上間至清(故人)さんら有志5名によって「平和之塔」の建設の話しが進められていった。財政難の当時資金集めのため、謝苅で2日間、桃原で1日間芝居を興行し、収益金を上げた。また村有志からの寄付金集めにも奔走した。
1954年「平和之塔」建立の案件が村議会に提案され、全会一致で可決された。同年10月10日には除幕式が挙行された。刻名対象者は町出身戦没者で、軍人、軍属、準軍属に限られていた。建立当時は968名が刻名されたが、終戦33年目の年に戦没者を再確認し、1,294柱に刻名者は増えた。
しかし、刻名板は建立から年数が経つにつれ損壊し、刻名者の判読不明が多くなっていった。そこで、戦後50年目に当たる1995年に終戦50周年記念事業として「平和之塔」を再整備するに当たり、刻名対象者を軍人、軍属、準軍属、民間人を問わず町出身者の全戦没者を刻名し、その御霊を慰めることとした。
町では、1995年10月22日(町民平和の日)に除幕式を挙行した。刻名者は2,321柱になっている。町では、刻名漏れがあれば追加で刻名していく方針である。
6.機関銃陣地壕
所在地:北谷町字吉原289番
立地(標高):山腹(約70m)
形態:人工壕
種別:陣地
現状:一部に落盤がみられるが、比較的良好
保存状況:丘陵の中腹に所在するため放置されている
築造者:不明
築造年月日:不明
戦時中の使用状況:陣地
主な遺構:陣地坑道、小部屋
機関銃陣地壕は、北玉小学校より北東へ約300mに位置する標高約80mの丘陵中腹に所在する。
陣地壕内部には壕口①から入壕するが、周辺の雑木林を伐採しなければ進入できず、また、丘陵裾野と壕口①の床面までの標高差が約3mあり、45度程度の斜面を有しているので、よじ登るように入壕する。
壕口②から④はそれぞれ600以上の急斜面にあるので、入壕が不可能である。壕口①、②附近坑道の床面は約10cmの埋土が見られる程度であるが、壕口③、④附近坑道は、天井や壁面が崩落しその埋土は80cm~140cmを測る。 壕内部を形成する土壌は、第3紀砂岩(ニービ)と第3紀泥岩(クチャ)の混合層であり、天井部が概ね泥岩であるのでその風化土が埋土として現れている。
しかし、壕口①、②附近坑道は丘陵山頂から染み出る雨水により一部の天井、壁面が鍾乳化しているため崩落が少ないものと思われる。
内部の遺構は、東西に延びる坑道を主とする。坑道は、概ね130cm間隔での坑木跡が見られる。埋土が少ない壕口①附近坑道の坑木跡1基の表土を、約120cm除去すると沖縄戦当時の地山が現れたが、坑木に打ち込む釘や鎹、坑木の破片等の遺物は確認できなかった。
坑道①の北側壁面に、幅約5m、奥行き約2mの小部屋が見られるが、当時の使途は不明である。この小部屋には厨子甕が10基(御殿型厨子甕5基、マンガン掛け厨子甕5基)配置されているが、銘書は無く埋葬者等を特定することは出来なかった。厨子甕は表土上に置かれていることから、戦後に移転されたものと思われる。
当陣地が所在する北谷町吉原の周辺には、1944年8月以降、第62師団独立歩兵第15大隊と第23大隊が配置されていた。これらの部隊は、同年12月、配備変更で本島南部へ移駐するまで、地域の住民を動員しながら陣地壕などを構築していた。12月以降、替わってこの地に駐屯したのは、独立混成第15連隊である。当壕が機関銃陣地といわれるのは、当時を知る地元住民がそう呼んでいるためで、陣中日誌によると、独立混成第15連隊第3機関銃中隊が1944年12月6日に北谷村佐久川・上勢頭に移駐したことが確認できる。しかし、当壕がこの部隊によって構築され、実際に使用されたかについては、聞き取りや文献調査が不十分なため、現在のところ不明である。
7.ウカマジーの海軍砲台跡
所在地:北谷町字浜川252番(嘉手納空軍基地内)
立地(標高):丘陵(約50m)
形態:構築物+人工壕
種別:砲台
現状:壕は崩落している部分がある
保存状況:基地内で説明版が設置されている
築造者:不明
築造年月日:1945年1月頃
戦時中の使用状況:海軍砲台として利用
主な遺構:砲台跡と付属の壕
北谷町は、米軍の上陸地点と考えられ、日本軍が町のいたる所に陣地を構築していた。現在の嘉手納空軍基地第1ゲートを入ると左奥にゴルフ場があり、その中に小さな岩山が残っている。米軍が野戦病院跡の碑を建てているが、ここがウカマジーの丘である。
ウカマジーの海軍砲台跡には、砲座、陣地壕、観測所等の施設跡が現存している。砲座と陣地壕は丘の中腹に所在し繋がっている。観測所は丘の上に所在する。砲座及び観測所は、コンクリートで作られている。
陣地壕は、崩落が激しいが、砲座跡は砲は撤去されているものの、砲と砲座を連結していたボルト等も残っており、残り具合は非常に良好である。
8月以降、第62師団(石部隊)独立歩兵第15大隊が移駐してきた。翌年、名所であった北谷トンネルも軍事車両の通行に差し障るとして破壊されてしまった。
海岸沿いには丸太を組んだ戦車止めや戦車穴が掘られ、米軍の上陸に備えた。ウカマジーの丘には海軍第11砲台が設置されていた。海軍は、1945年1月頃、沖縄本島に15.5cm砲9基を設置した。ウカマジーの海軍砲台は、この時に整備されたものと思われる。また、丘の頂上部には、砲の観測所と思われるコンクリート製の構造物がある。海軍砲台には、喜友名小屋取から14名の女子青年が3月24日・25日頃、海軍女子挺身隊として徴用された。また、下勢頭からも女子青年団57名が、砲弾運びに動員された。
海軍砲台からは2発の砲弾発射があったが、かえって標的となり40名近い兵士の内4から5名のみが生き残った。女子挺身隊として徴用されていた女子青年団などもウカマジーの壕などに避難していたが、逃避行の中で銃撃され、最後には軍から支給されていた手摺弾を爆発させて「自決」した者も含め、17名が戦死した。1950年旧桃原3区公民館跡に「護国挺身隊の碑」として納骨堂を建てた。その後遺骨は、1979年国立沖縄戦没者墓苑に遷骨された。2010年11月「護国挺身隊の碑」は関係者によって取壊された。
8.白比川沿いの特攻艇秘匿壕群
所在地:北谷町字大村374・363・357番1(キャンプ瑞慶覧内)・吉原988番・1008番
立地(標高):丘陵(約20m)
形態:人工壕
種目:秘匿壕
現状:壕は崩落している部分がある
保存状況:原野に放置されている
築造者:海上挺進基地第29大隊
築造年月日:1944年12月以降
戦時中の使用状況:特攻艇秘匿壕
主な遺構:秘匿壕
米軍の上陸が想定された地域には、陸軍の特攻艇部隊が配置された。沖縄には、慶良問に海上挺進第25戦隊、与那原に第27戦隊、港川に第28戦隊、そして北谷に第29戦隊が配備される予定だった。
海上挺進第29戦隊は、1945年1月沖縄へ向かったが、輸送船団は敵の攻撃を受け戦隊主力は奄美大島で立ち往生した。第1中隊と第2中隊の一部が到着したが、保有する特攻艇は約20隻に過ぎなかったという。
第29戦隊の配備に先だって、基地建設のための部隊が配置されることとなった。特攻艇㋹の基地建設部隊である海上挺進基地第29大隊は広島で創設され、1944年の12月5日に白比川沿いに進駐した。北玉国民学校や民家に分宿した部隊には応召兵が多かったので、住民からは「タンメー(おじさん)部隊」と呼ばれた。このとき、村内からも約200名あまりが防衛隊として編入され、昼夜兼行の秘匿壕づくりが行われている。白比川を挟んで両側に30~40本の秘匿壕がつくられたという。壕掘りを行っている。壕は高さが約2m、幅は約3mで、奥行きは壕によって異なるが、挺を2隻縦に並べて格納できるほどであった。
現存する壕の中の1つは12mの奥行きがある。(㋹は全幅1.8m、全長5.6m)川までは、枕木に線路を敷いていたようである。白比川沿いには、7基の壕が残っており、その中の1基が現在、墓として転用されている。
1945年3月29日夜から30日朝にかけて中川中尉以下1 7名が出撃し慶良間方面の米船団に向けて攻撃した。全艇未帰還となったが、1名だけは生還した。