1.沖縄陸軍病院壕群
所在地:南風原町字喜屋武257番地
築造年月日:1944(昭和19)年
沖縄陸軍病院
沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、1944(昭和19)年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成 されました。6月から那覇市内で活動を始めましたが、同年10月10日米軍空襲によって施設が焼却し、南風原国民学校校舎に移転しました。それ以来、第 32軍野戦築城部隊の指導のもとで、字喜屋武(黄金森)と字兼城(現在の役場北側の丘)に約30の横穴壕が作られました。
米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬、陸軍病院は各壕へと移りました。広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加 え、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員されました。
4月1日に米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めました。5月下旬、第32軍司令部 は摩文仁(糸満市)へ撤去を決定し、陸軍病院に撤去命令が出されました。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われました。
南風原町は1990(平成2)年、戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定しました。
南風原町webサイトより引用
2.チビチリガマ
所在地:読谷村波平1153
アメリカ軍の沖縄本島上陸の翌日1945年(昭和20)4月2日、鬼畜(きちく)と教えられたアメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れて、肉親相互が殺しあうという凄惨(せいさん)な地獄絵図を現出したといわれる「集団自決」が行なわれた所です。
この洞窟への避難者約140人の内、無辜(むこ)の住民83人が非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げたということです。
後に人々は犠牲者の死を悼み、永久平和を祈念して「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を建立しました。
チビ=尻 チリ=切る
チビチリガマは浅い谷の底にあり、谷川を流れる細い川はガマへ流れるが、どこへ流れ着くのか分からないという事からこの名が付きました。
読谷村観光協会webサイトより引用
3.シムクガマ
所在地:読谷村波平438
1945年(昭和20)3月、アメリカ軍の空襲は日を追って激しくなり、やがて艦砲射撃も始まるようになると、波平では約1千人の字民がこの洞窟に避難するようになりました。
やがてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい砲爆撃の後、シムクガマに迫って来ました。
アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥りました。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、足の踏み場もありません。
その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の2人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、1千人前後の避難民の命が助かったということです。
この事実に基づいて波平区では、命を救った二人の先輩に感謝の意をこめて洞窟内に記念碑を建立しております。
シム=下 ク=向く
谷の下にガマがあることからこの名が付きました。
読谷村観光協会webサイトより引用
4.掩体壕跡
所在地:読谷村座喜味2944
1943(昭和18)年、旧日本軍によって沖縄北飛行場建設が計画・実施された。その翌年、軍用機を攻撃から保護する施設として建設されたのが掩体壕である。
証言によると、ドラム缶を積み上げ、その上に土を盛って叩き固め、半円状の原型を造り、セメント袋をかぶせてコンクリートを流し込み、十分に乾燥したところで中のドラム缶や土を取り出すという方法で造られたと言われている。
飛行場跡一帯には、1978(昭和53)年頃まで7基の掩体壕が残っていたが、現在はこの1基のみとなっている。
掩体壕は、この地が旧日本軍の飛行場であったという史実と、沖縄戦を伝える生き証人として、2009(平成21)年1月22日に村指定史跡(沖縄戦に関する史跡)に指定された。
【規模:幅約20m,奥行約10m,高さ約5m】
読谷村教育委員会2018年設置
設置されていた看板より引用
5.嘉数高地
所在地:宜野湾市嘉数1丁目22-9
当地は、1945年4月6日頃から2週間余りにわたって激戦が繰り広げられました。
日本軍が爆雷を背負って戦車に体当たりをするという肉弾戦法により、米軍は大きな被害を受けました。日米両軍の兵士に加え、嘉数区の住民のおよそ半分(53%)が戦闘に巻き込まれて命を落としています。
今は「嘉数高台公園」として市民の憩いの場となっていますが、園内には今もなおトーチカや陣地壕が残っています。この場所で悲しい歴史があったことを忘れてはいけません。
6.前田高地・ハクソーリッジ
所在地:浦添市仲間2丁目53
沖縄戦当時、浦添城跡一帯の丘陵は米軍から「ハクソー・リッジ」、日本軍から「前田高地」と呼ばれていました。
米軍攻撃正面となる北側は険しい断崖であるうえ、頂上まで上り詰めた米軍に日本軍が猛烈な攻撃を浴びせる戦術をとったため、米軍の退却の際は多数の負傷兵が取り残されました。
信教上の理由から武器を持たない衛生兵デズモンド・ドスは、日本軍の猛砲火のなか多くの兵の命を救ったため、のちに名誉勲章を授けられました。
設置されていた看板より引用
7.161.8高地陣地
所在地:中城村北上原
現位置は、1945年に日本軍が築いた161.8高地陣地(各種防御施設群)の中に位置しています。 161.8高地陣地は、1945年1月29日にこの地に移駐してきた独立歩兵第14大隊第1中隊が、現在の沖縄県立消防学校の北東側に位置する小高い山を利用して築いた陣地で、機関銃陣地や、それら各防衛拠点を結ぶ地下道や交通壕、地下退避壕、鉄条網、地雷原などで構成されていました。 1945年4月1日に米軍が読谷と北谷の海岸に上陸し、4月5日には161.8高地陣地も米軍第7師団第184連隊第1大隊B・C中隊の攻撃を受けるようになります。当時守備についていたのは、独立歩兵第14大隊の第1中隊(第2小隊欠)、機関銃1個小隊、無線1個分隊の約150名でした。守備隊は圧倒的戦力の米軍に対し善戦し、翌6日も米軍の猛攻を7~8回撃退しました。しかし日本軍の損害も大きく、守備隊は6日の夜のうちに南側の142高地に撃退したため、161.8高地陣地をめぐる戦闘は終わりを迎えることになりました。 この解説版の後方(東側)にはいまでも日本軍の設けた交通壕の跡が残っており、さらに現位置から北東側約160mの場所でも監視所や壕が良好な状態で残されているのを見ることができます。
【中城村教育委員会】
設置されていた看板より引用
配置と構造
161.8高地陣地は、標高120~160mの独立丘全体を利用して築かれています。
1945年1月頃、日本陸軍独立歩兵第14大隊と徴用された地域住民により機関銃や迫撃砲などの火力拠点、それらを結ぶ交通号やトンネルが構築されました。丘の中央部には大岩があり、頂部に監視哨、根元に壕が設けられています。監視哨の屋根は軽便鉄道の鉄材や松の木を骨組みとし、コンクリートを流し込んで造られており、壁面は自然石をモルタルで接着し、擬岩風に仕上げています。壁面の南西部には、出入口を設け、北東(北谷方面)、北西(宜野湾方面)、南東(中城海岸方面)の3ヶ所に監視窓が設けられています。岩の根本に設けられた壕は、監視哨を造るため大岩を削った際に発見された自然洞穴を利用しており、内部には銃眼や外部へ通じるトンネルなどが設けられています。
陣地をめぐる戦闘
1945年4月1日、沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍のうち、アメリカ陸軍第7師団に所属する。
第184連隊第1大隊は、南へと進攻し、4月5日には161.8高地陣地に至り同地を守る日本陸軍独立歩兵第14大隊の一部との間で戦闘が開始されました。米軍は同地を「ピナクルロック(尖峰岩)」と呼称し、両軍の間で一進一退の激戦が繰り広げられましたが、米軍の猛攻により日本軍の損耗も著しくなったため、6日夜に同陣地から日本軍が撤退し161.8高地陣地をめぐる戦闘は終了しました。
中城村では、沖縄戦の実相を継承し平和の尊さを後世に伝えていくため、平成26年3月26日に「161.8陣地高地陣地」を中城村指定文化財(沖縄戦に関する遺跡)に指定しました。
設置されていた看板より引用
8.旧西原村役場壕
所在地:西原町字翁長320
西原町指定文化財(2014年3月18日指定)
1941年の太平洋戦争勃発後、日本軍の戦況が悪化してくると、大本営は沖縄に第32軍を配備し、西原村でも西原国民学校などに1200名が駐屯しました。
戦況がますます厳しくなった1944年6月ごろ、西原村役場でも地元住民から人夫を雇って役場壕を掘り、戸籍簿・土地台帳などの重要書類や、公金・公印・出納簿・戦時債権などを重さ1トンほどもある壕内の金庫に収納していました。
役場の事務は米軍の本島上陸直前まで行われ、毎朝出勤すると役場壕から書類を持ち出して事務を行い、夕方再び書類を壕内に運んで保管していました。
戦後、壕内はそのまま放置され、1980年ごろ、土建業者が道路に面した部分をえぐってしまったために主壕の壁が壊され開口してしまいました。本来の入り口は北東に向かった二カ所です。
今日、戦争の歴史的教訓が年々風化するなか、太平洋戦争の悲惨さを物語る、本町での数少ない戦争遺跡のひとつとなっています。
設置されていた看板より引用
9.轟の壕
所在地:沖縄県糸満市伊敷
全長約100mの東西に延びる自然壕。壕内を川が流れる。
1945年3月に米軍による空爆や艦砲により攻撃が始まると、真壁村名城の住民が避難しましたが、日本軍の南部撤退で司令部を摩文仁に写した5月末頃から、戦火に追われた地域外からの住民も避難して来ました。
設置されていた看板より引用
10.沖縄陸軍山城本部壕
所在地:沖縄県糸満市伊原279
全長約100mの東西に延びる自然壕。壕内を川が流れる。
5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕とし、第一外科壕、第三外科壕を伊原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒も配属されていました。
廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ分散した各外科壕を統率しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。
設置されていた看板より引用