北谷町の戦前戦後の様子【北谷町公文書館】

戦火をくぐりぬけて

平和祈念展 北谷町公文書館
 1941年(昭和16)12月8日、日本軍は米国ハワイ州の真珠湾を奇襲攻撃した後、米英に宣戦布告し沖縄戦へとつづく アジア太平洋戦争が始まりました。日本軍は宣戦布告から半年でアジア太平洋の広大な地域を占領していきますが、1942年(昭和17) ミッドウェー海戦で大敗したのを境に各戦線で連合軍の大反撃をうけ、以後は敗北の一途をたどりました。戦線が沖縄に近づいてきた1943年(昭和18)、日本軍は沖縄島の読谷山村(現読谷村)、北谷村(現嘉手納町)屋良、浦添村(現浦添市)仲西に飛行場建設しました。翌1944年(昭和19)には大本営直轄の沖縄守備軍・第32軍が創設されました。
 米軍は1945年(昭和20)3月26日に慶良間諸島を占領したあと、4月1日に沖縄島中部の北谷・読谷にかけての海岸から上陸し、北と南の両方向に進撃しました。1941年(昭和16)12月8日、日本軍は米国ハワイ州の真珠湾を奇襲攻撃した後、米英に宣戦布告し沖縄戦へとつづく アジア太平洋戦争が始まりました。日本軍は宣戦布告から半年でアジア太平洋の広大な地域を占領していきますが、1942年(昭和17) ミッドウェー海戦で大敗したのを境に各戦線で連合軍の大反撃をうけ、以後は敗北の一途をたどりました。戦線が沖縄に近づいてきた1943年(昭和18)、日本軍は沖縄島の読谷山村(現読谷村)、北谷村(現嘉手納町)屋良、浦添村(現浦添市)仲西に飛行場建設しました。翌1944年(昭和19)には大本営直轄の沖縄守備軍・第32軍が創設されました。
 米軍は1945年(昭和20)3月26日に慶良間諸島を占領したあと、4月1日に沖縄島中部の北谷・読谷にかけての海岸から上陸し、北と南の両方向に進撃しました。
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 1945年(昭和20) 2月、戦線が沖縄にいたるのに備えて、中南部市町村の住民の北部への避難が提案されました。北谷村民の退去先は北部の羽地村(現在の名護市羽地)が指定され、北谷村役場羽地分所を設け、職員を派遣して生活に必要な準備にあたらせました。当初は、退去先での生活や家財道具を残して家を空けることへの心配などから、退去はあまりすすみませんでした。しかし、1945年(昭和20) 3月から始まった米軍の空襲や艦砲射撃で状況は一変しました。この攻撃で民家のほとんどが焼け、人々は命からがらに防空壕に逃げ込みました。米軍の砲火のすさまじさを体験した人々は、準備もそこそこに北へ北へと避難をつづけました。1954年(昭和20) 4月1日、米軍は北谷・読谷一帯から沖縄本島への上陸作戦を開始します。ここを起点に沖縄本島の北部と南部の両方面への進撃をはじめ、住民を収容所に保護していきました。
 そのため、米軍が沖縄本島に上陸した4月1日に村内に仮設された難民収容所で戦後生活をスタートした者もいれば、戦闘に巻き込まれながら逃げ回った先で米兵に保護され近くの収容所に収容された者など、各地で戦後生活をスタートすることになりました。
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軍事郵便 (北谷町公文書館蔵)

戦地にいる兵士とその家族をはじめとした国内の人々をつなぐ軍事郵便制度は、日清戦争時の1894年(明治27)に始まりアジア太平洋戦争後の1946年(昭和21)まで続きました。
戦前の北谷村宛てに出されたこれらのハガキは、元米陸軍兵が米国で長年保管していたものです。戦後70年余り経過した今年、送り主の家族に返還されました。
(高宮城三郎氏宛てのハガキは未だ返還先が不明となっています。何かご存知のことがありましたら、北谷町公文書館へ情報提供をお願いします。)
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沖縄本島の収容所
(『読谷村史 第5巻』275頁より加筆・作成)

多くの北谷村民が羽地村へ退去を開始する前に米軍の艦砲射撃が始まったので、実際に山原まで到達した者はわずかでした。そのため、米軍が沖縄本島に上陸した1945年(昭和20)4月1日に村内の仮設難民収容所で戦後生活をスタートした者もいれば、戦闘に巻き込まれながら逃げ回った先の収容所に収容された者など、各地で戦後生活をスタートすることになりました。しかし、中部の収容所は人数がすぐにいっぱいになったため、別の収容所へ移される人々もいました。
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収容所の設営
  1945 (昭和20) 年 撮影 (沖縄県公文書館蔵)

アメリカ軍は4月中旬ごろ沖縄本島北部の羽地村田井等(現名護市羽地)に軍政府を設けて避難民を収容しました。 
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島袋の収容所
1945 (昭和20) 年4月6日撮影 (沖縄県公文書館蔵)

現在の北中城村島袋集落は米軍の一大難民収容所として利用されました。米軍上陸後に北谷と砂辺の仮収容所に収容されていた住民は、4月5日に米軍の車両や徒歩で島袋収容所に移されました。そこで、17歳から45歳までの男性をえり分けて米軍の作業を行う特別作業員として収容し、一般収容所では瓦葺き家に数所帯・十数人も押し込められた窮屈な生活でした。
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青空教室
  1945 (昭和20) 年4月15日撮影 (沖縄県公文書館蔵)
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桑江での配給
  1945年(昭和20)4月2日撮影 (沖縄県公文書館蔵)

北谷村桑江の桑江駅付近にあった製糖工場の倉庫前で、米の配給券を手にした住民が配給を受けています。

郷里への帰還―帰村―

人口移動

 1945年10月30日、島民に移動が許可されると人々は元の居住地に帰っていきましたが、基地建設が進んでいた北谷村に帰村の許可は下りませんでした。そこで北谷村は現在の沖縄市嘉間良に仮役所設置し、戦前の居住地への帰還要請を重ねました。他の市町村に遅れること1年の1946年(昭和21) 10月22日、軍民会議に提出された北谷の移動要請がようやく受け入れられ、北谷村域の一部へ移動が許可されました。翌月には先遣隊が派遣され、住居の建設や食料栽培を始めました。翌年2月5日には村民移動を促進するため、村役所を嘉間良から上勢頭先遣隊事務所に移転し、さらに住民移動を目前にひかえた2月19日には字桃原に米軍の廃材を利用した木造トタン葺の庁舎を建築しました。
 帰村が始まると、桃原・謝苅・嘉手納の三区が新設され、派出所や販売所・診療所などの公共施設も相次いで整備され、初等学校も開校に向けて準備をはじめました。しかし、基本台帳の類をことごとく焼失していたため、配給や労務供出、在籍・学齢児童の把握に支障が生じ、住民をよく知る旧役場職員や旧区長を優先して帰村させることとなりました。第三次村民移動を最後に軍政府からの移動助成はうち切られ、その後は自力での移動となりました。大多数の村民は1947年中に村へ復帰しましたが、土地の大部分を基地に占有され生活の見通しがたたないことから、帰郷を見合わせる者もいました。

戦後処理

 終戦後の1952年(昭和27)日本本土では軍人・軍属などの公務上の傷病や死亡等に関し、国家補償の精神に基づいて援護を行うための「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(援護法)が制定されます。当時、米国統治下にあった沖縄は援護法の適用外となりますが、沖縄の人たちは援護法の適用を強く求め、1953年(昭和28) 3月琉球諸島及び大東諸島に適用されました。
 援護事務は兵士などの生死や負傷状況、身分などを確定する復員処理を元に行います。地上戦があったため人的被害が大きく、戸籍をはじめとする様々な資料が焼失したことや、米国統治下であることなど複数の理由から、援護法が適用されるまでの約7年の間に沖縄では復員処理はほとんどなされていませんでした。 そこで、まず復員処理を促進するために「調査票」にもとづいて死亡公報を発行し処理を進めることになりました。また援護の対象についても、沖縄戦に動員された多くの学徒たちは、当初は直ちに身分が認められない場合がありました。一般住民についても、軍と直接の雇用関係がないとの理由で援護の対象となりませんでしたが、1959年(昭和34)4月から「戦闘参加申立書」の認定された者は準軍属扱いとなりました。
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沖縄未帰還者調査票 
1957年(昭和32)(北谷町公文書館蔵)

この資料では、鉄血勤皇隊として従軍した未帰還者について報告されています。
沖縄戦では、鉄血勤皇隊として14歳から17歳までの少年兵も招集されました。鉄血勤皇隊は陸軍省令規則のみが法的根拠であったため、無効な防衛招集であったとして少年たちの軍籍を認められませんでした。後に調査検討され、軍人とすることが確定し援護法の対象となりました。
沖縄戦では生死や負傷状況が不明確なことが多く、このような「調査票」に基づいて復員処理がなされました。
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北谷の役場変遷
①戦前の当時、北谷損の中心地、浜川にあった北谷損役場
②1945(昭和20)年2月19日に疎開地に指定された羽地村へ役場分所を設置。常駐職員3名を派遣した。
③1946(昭和21)年4月25日越来村嘉間良に北谷村仮役所を設置する。
④上勢頭の大毛にあった先遣隊事務所。1947(昭和22)年2月15日に仮役所を先遣隊事務所に移転
⑤1947(昭和22)年2月19日、桃原一区(吉原520番地)に木造トタン葺庁が建設される。
⑥1950(昭和25)年4月に謝苅一区に建設された木造瓦葺庁舎。
⑦1961(昭和36)年、吉原10番地に建設された北谷村役場。
⑧1998(平成10)年に桑江226番地に建設された現在の北谷町役場。
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人口移動ニ関スル件
1946年(昭和21) 10月25日付(北谷町公文書館蔵)

最初の帰村場所である桃原と上勢頭地域への移動許可書。
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住民移動許可
1947年(昭和22)12月24日付(北谷町公文書館蔵)

4番目に北谷村に出された移動許可。吉原栄口原、宇久殿原、謝苅原の一部が居住地域として許可されました。
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先遣隊事務所
1947年(昭和22) 頃(北谷町公文書館蔵)

上勢頭の大毛(ウフモー)に建設された先遣隊事務所。
先遣隊は建築と農耕の2隊に編成されており、事務所はおもに住宅資材の収容と隊員の合宿所に使われていました。1947(昭和22)年2月5日、村民の移動を促進するため、村役所が越来村(現沖縄市)嘉間良から先遣隊事務所に移転してきます。
村民が帰村した直後は、米軍の配給食料と農耕隊が栽培した芋などを使って共同炊飯していました。
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北谷村配車使用状況調
自 1947年(昭和22) 4月25日 至 5月25日(北谷町公文書館蔵)

移動の許可を受け、先遣隊による準備が整うと村民の移動が始まりました。
輸送は沖縄民政府工務部から派遣されたトラック数台を使用しました。移動は1947年(昭和22) 2月25日に遠隔地の北部地域から行われました。
この文書では日ごとに移動した人や物資の数を報告しています。
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家造り風景(戦後)

戦後の謝苅での棟上げの様子。
戦後の住宅建設は廃材を集めることから始められ、標準住宅(ヒョウジュンヤー、キカクヤー)と呼ばれるススキやチガヤで屋根を葺き、テント布を張って壁にした戦災復興住宅が建てられました。
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戦後復興期のおもな公共施設

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戦後初期の謝苅1
1946年(昭和21)頃 撮影(北谷町公文書館蔵)

1946年(昭和21) 10月にようやく帰村が許されましたが、戦前に住んでいた地勢の良い平坦地は軍用地に使用されたため、人々は起伏のある傾斜地への居住を余儀なくされました。
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戦後初期の謝苅2             
  1948年(昭和23)頃撮影(北谷町公文書館蔵)

基地に囲まれて

嘉手納村の分村

 他の地域より復興がはやかった嘉手納区は帰村からまもなく、またたく間に人口が膨れ上がりました。同じ頃に嘉手納基地が整備拡張され、1948年(昭和23) 5月頃には管理が強化されて基地内全面立ち入り禁止となりました。そのため、桃原の村役所への道路が遮断され、嘉手納から謝苅周りか、越来村を大きく迂回しなければならず、往復も半日がかりとなりました。同年7月2日に「市町村制」が交付され、市町村事務に関する条例を設けることが可能になり、これを受けて11月5日の第1回北谷村議会で嘉手納の分村案件が全会一致で承認されました。その後、11月10日付で沖縄民政府あてに嘉手納村の分村に関する陳情書が提出され、12月4日に分村が正式に許可され嘉手納村が誕生しました。
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分村に関する陳情書              
  1948年(昭和23)11月10日付(北谷町公文書館蔵)

 他の地域より復興の早かった嘉手納地区は、またたく間に人口が膨れ上がりました。しかし、同時期に嘉手納基地内が全面立入禁止となり、桃原の村役所への道路が遮断されたことで不便を強いられた嘉手納地区の住民の間から分村の世論が高まりました。陳情書は北谷村議会から沖縄民政府知事宛てに提出されました。

地籍字の再編と土地調査

 戦時占領期は「ヘーグ陸戦法規」を根拠として、米軍は無償軍用地を使用していましたが、対日講和条約発効後は戦時占領も終わることから、土地使用の合法化と地代支払いの検討をはじめ、ました。沖縄戦で土地関係の公簿や公図・登記簿などが消失し、地籍不明の状態にあっため、まず土地の所有権を確認公証するための資料を収集する地籍調査が行われることになりました。
 北谷村は字ごとの面積の差が大きく、米軍施設も多いことから土地調査の上で支障があったため、調査の前に民政府へ地籍字の再編を申請しました。これによって、1947年(昭和22) 10月29日までに12字が20字に再編されました。しかし、合併された一部地域で新しい字に対する反発が大きく、翌年4月24日に字名改称許可申請が出され、字名がそれぞれ改称されました。
 北谷村の地籍調査は1948年(昭和23)から1949年(昭和24)にかけて実施されました。測量に関する知識不足と器具の不備が原因で作業がやり直しになったり、敷きならされた境界不明地の図面作成など非常に苦労の多い調査でした。その成果は、「土地所有権証明」(米国軍政府特別布告第36号)にもとづき、北谷村では、同年4月27日に土地所有権証明書の交付を開始し、土地調査を終了しました。
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土地調査進捗状況綴
1948年(昭和23) 8月10日付(北谷町公文書館蔵)

沖縄戦で、土地登記簿や土地台帳のほとんどが焼失したため、戦後は土地に関する権利関係や現状を把握するのが難しい状況にありました。これを明確にするために、1951年(昭和26) から「土地所有権証明書」の交付が始まります。
この文書は、証明書の交付が始まる前の1948年(昭和23)から1949年(昭和24)に行われた土地調査の進み具合を報告しています。

基地問題

 帰村直後の住宅地や耕作地は割当制でしたが、土地所有権の認定により法的に土地の売買・賃貸借が可能となりました。これを期に、ほとんどの割当耕作地は地主に返され、住宅地については居住者が買い上げたり、借地料が支払われたりしました。土地をめぐる権利意識も徐々に再形成され、地主と土地割当者との間のトラブルも起きるようになりました。戦時占領から軍用地は無償で使用されていましたが、他人所有の割  帰村直後の住宅地や耕作地は割当制でしたが、土地所有権の認定により法的に土地の売買・賃貸借が可能となりました。これを期に、ほとんどの割当耕作地は地主に返され、住宅地については居住者が買い上げたり、借地料が支払われたりしました。土地をめぐる権利意識も徐々に再形成され、地主と土地割当者との間のトラブルも起きるようになりました。
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適正賃貸料の支払方要望に就いて
1954年(昭和29)5月12日 付(北谷町公文書館蔵)

北前地区は1948年(昭和23) 年4月に開放され居住や耕作を開始していましたが、わずか1年後に米軍から口頭命令をうけ強制退去することになりました。
その4年後に、ふたたび北前の一部は開放されますが、農耕地は荒れ、海の護岸は崩れた状態からの再復興となりました。これに対し、支払いが決まったのは1年1ヶ月間分の市場価格よりかなり低額な土地賃貸料でした。
この文書では、対日講和発効の前後を通じて占有した期間分の適正な賃貸料を支払うよう陳情しています。
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軍用地問題に対する意見について
1954年(昭和29)10月15日 付(北谷町公文書館蔵)

1952年(昭和27)、米軍は軍用地料の一部支払いを認め、軍用地の「契約権」を公布しました。しかし、借地料は安く20年という長期契約だったため、多くの地主はこれを不満として契約を拒否しました。さらに1954年(昭和29) 3月に米軍は土地の無期限使用を意図した「軍用地料一括払い」の方針を発表しました。
この文書は、これら軍用地問題についての北谷村の意見を沖縄県市町村軍用地委員会連合会へ報告したものです。
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戦前の北谷村字と郷友会

郷友会とは、一般的に「仕事などを求めて郷里を離れた人々が異郷において結成する同郷集団」とされますが、ここでいう郷友会は、米軍の土地接収によりふるさとを奪われた人々が結成した同郷結合組織をさします。北谷町は嘉手納飛行場・キャンプ桑江・キャンプ瑞慶覧・陸軍貯油施設の4つの米軍施設が町総面積の約半分をしめており、戦前北谷村にあった集落(旧字)の多くが今も集落の全域あるいはその一部が米軍によって接収された状態にあります。旧字の住民たちは郷友会を結成し、所有財産の管理や伝統行事・親睦行事の実施、葬儀の際の互助などを行っています。
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軍用地返還と行政区の変遷
            
 戦前の北谷村は現在の嘉手納町域も含めて12の字があり、行政手続きや集落の活動は字を中心に運営されていました。北谷における行政区は、帰村が許可された居住許可地に桃原・謝苅・嘉手納の3区が設置されたことに始まります。1947年(昭和22)の区設置から現在まで、行政区の再編は7度おこなわれました。
 目まぐるしい変化の理由は、接収された軍用地の段階的な返還と、山間部の開発や海岸部の埋め立てによる住宅地の拡大に対応する形でなされてきました。戦前の字(旧字)は地籍字として残りますが、戦後の地籍調査時の不便を解消するため、1947年(昭和22)に12字から20字へ再編されます。また、嘉手納基地が整備拡張され基地内の通り抜けが不可能となったことから、1948年(昭和23)に嘉手納村が分離しました。
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字名改編許可申請ノ件
1948年(昭和23) 4月24日付(北谷町公文書館蔵)

 北谷村では地籍調査の前に字を12字から20字に編成し直しました。しかし、玉代勢に合併された伝道や、桃原に合併された謝苅、平安山に合併された伊礼地域では新しい字名に対する反発が大きく、この「字名改編許可申請」が出されました。
申請は許可され、玉代勢は大村、桃原は吉原、平安山は伊平へと字名が改称されました。

発展する北谷町

米軍統治下の村づくり

 戦前の北谷では約8割が農業従事者でしたが、戦後は広大な平坦地は基地の用地として優先的に確保され、民間はその残りを利用する形になりました。そのことで農業は衰退し、多くの人が軍作業などの第三次産業へ従事しました。また、利用可能な土地が分断されたことで発展に不可欠な整合的な土地利用が非常に難しくなりました。
 1953年(昭和28)以降、北谷村では基地接収による住宅地の不足から人口が伸び悩んでいました。 1960年代後半には、玉上・吉原・桑江などの山間部地域が民間主導で宅地開発されました。また、浜川地先の埋め立てによる町域の拡張も図られました。村営住宅の建設もすすめられ、1971年(昭46) 6月に最初の村営住宅が栄口に完成し、1973年(昭和48)にはコザ市から北谷村東部をぬけ国道58号に接続する県道23号(国体道路)が開通しました。

振興計画とまちの発展

平和祈念展 北谷町公文書館
 北谷村では、1972年(昭和47)に第一次振興計画(1972年~1981年)が策定され、長期的な展望の下に総合的なまちづくりがはじまりました。第一次振興計画では、基地経済から脱却した平和産業の自立を図る「商業観光住宅都市」を理想像として掲げました。道路・上下水道などがある程度整備され、市街地が拡大することで人口が急増し、1980年(昭和55)には町制へ移行しました。
 第二次振興計画から第四次総合計画 (1982年~2011年)では、米軍基地の整理・統合がすすみ、1981年(昭和56)ハンビー飛行場とメイ・モスカラ射撃訓練場が返還され、軍用地跡地の計画的利用が始まりました。 1998年(平成10)には、返還をみこんでキャンプ・レスター内に役場新庁舎が建設されました。 また、現在の美浜区にあたる桑江地先の大規模な埋め立てもおこなわれ、アメリカンビレッジ構想にもとづく美浜地区が誕生しました。コースタル・コミュニティ・ゾーン整備計画(C C Z)による西海岸の護岸や公園の整備などとともに、県内外から多くの人が集まる活気にあふれたまちとして発展をはじめました。
 現在進行中の第五次総合計画(2013年〜2021年)では、西海岸一帯の活性化と水産業の振興等を目指したフィッシャリーナ整備事業や、キャンプ桑江北側地区を職住近接型の賑わいと自然環境が調和した市街地の形成として桑江伊平土地区画整理事業が進められています。
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航空写真(1962年7月)        
1962年(昭和37)7月撮影
(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスを基に作成)

①の謝苅地区は谷あいにまで家が密集しています。
大毛(ウフモー)と呼ばれる②の山地は北谷の人が帰村を許された最初の場所です。
③は米兵が民間地域に入るのを防ぐ対策として、嘉手納飛行場から大毛への道を掘り下げ車両の通行を止めていたチラーと呼ばれた所。
④は現在の桑江・栄口区。
⑤の謝苅入口付近は石灰岩堤の山が切り崩されています。
⑥の北前地区は米人むけ住宅が立ち並んでいます。
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北谷村役所周辺                    
1961年(昭和36)撮影 (沖縄県公文書館蔵)
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旧ナポリ座付近                    
1963年(昭和38)撮影 (沖縄県公文書館蔵)

町道ナポリ線から県道24号線方面が撮影されています。
左側にある三和相互銀行はこの後、営業譲渡され同年8月に沖縄銀行謝苅支店となりました。現在、謝苅支店は北谷交差点に移転しています。
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北玉小学校
1963年(昭和38)撮影 (沖縄県公文書館蔵)
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謝苅交差点
1963(昭和38)年 撮影(沖縄県公文書館蔵)
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航空写真(1973年2月)
1973年(昭和48)2月撮影(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスを基に作成)

①は建設中の国体道路(県道23号線)。
②の埋立地は現在の宮城区。のちに港を挟んで南側も埋立てられ現在の美浜区となります。
③は宅地開発中の栄口区と桑江区。
④ではハンビー飛行場が確認できます。
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建設中の国体道路(県道23号線)
1973年(昭和48) 撮影(北谷町公文書館蔵)

1970年(昭和45)に嘉手納飛行場の一部・上勢頭地域が返還され、復帰記念事業として1973年(昭和48)の若夏国体開催時に国道58号とコザ市(現沖縄市)を結ぶ県道24号(国体道路)が開通しました。これに伴い、上勢頭地区と桑江地域の宅地開発が本格化しました。
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北谷漁港整備 地鎮祭
  1974年(昭和49) 撮影(北谷町公文書館蔵)
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現在のニライセンター前の道路
1976年(昭和51) 撮影(北谷町公文書館蔵)

桑江地域は、「北谷村第一次振興計画」にもとづいて、1975年(昭和50)頃から宅地の開発整備が行われました。住宅地の中に中央公民館や総合運動公園・北谷町消防本部(当時)・県立北谷高等学校・桑江公園などの公共施設がつくられました。
現在、ニライセンターがある写真左手の空き地には、中央公民館が建設されました。
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北谷村初の公営住宅 栄口団地
  1971年(昭和46) 頃(北谷町公文書館蔵)
当時の北谷村は、総面積の7割が軍用地に接収され、用地が少ないため住宅を求めることが困難で、高価な家賃で間借りしているものが少なくない現状でした。
そこで、住宅難の解消と低所得者層へ低廉な家賃で賃貸することによって住民の生活の安定と社会福祉の増進を図ることを目的に、1970年度から3カ年計画で公営住宅の建設を推進しました。
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航空写真(1990年11月)
  1990年(平成2)11月撮影(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスを基に作成)

①の桑江区や栄口区、埋立造成された
②の宮城地区一帯は住宅が立ち並んでいます。
③ではハンビー地区が開発されハンビータウンの建設など街並みが整備されているのが確認できます。
④では美浜地区が埋立造成されサンセットビーチや陸上競技場などが姿をみせています。
平和祈念展 北谷町公文書館
町制施行
1980年(昭和55) 撮影(北谷町公文書館蔵)

北谷町制が施行された日に、当時の島袋雅夫町長(左)と花城可金議長(右)が役場の看板を付け替えました。
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ハンビー地区開発
1988年(昭和63) 撮影(北谷町公文書館蔵)

ハンビー地区は、土地区画整理事業の完了した1991年(平成3) 頃から、大規模小売店舗(ハンビータウン)や各種専門店が集積する商業地域として発展しました。1994年(平成6)に安良波公園が、2001年(平成13)にはアラハビーチが完成しました。
平和祈念展 北谷町公文書館
サンセットビーチ
2006年(平成18) 撮影(北谷町役場町長室蔵)

北前から美浜までの海浜部は1987年(昭和62)にコースタル・コミュニティ・ゾーン(CCZ)として建設大臣の認定をうけ、護岸や公園整備がおこなわれました。美浜地区の北谷公園には1989年(平成元) にサンセットビーチがオープンし、隣接して1987年(昭和62)開催の海邦国体の会場となったソフトボール場を始め、陸上競技場や屋内運動場(北谷ドーム)が次々と完成しました。
平和祈念展 北谷町公文書館
航空写真(2010年9月)
  2010年(平成22)9月撮影(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスを基に作成)

①北谷町役場移設を契機に、返還された
②の桑江・伊平地区が新たに市街地・住宅地として開発されています。
③美浜区のアメリカンビレッジは観光や商業地としてにぎわいを見せています
④安良波海岸もビーチが整備されました。
⑤は新たに埋立造成されたフィッシャリーナ地区。
平和祈念展 北谷町公文書館
北谷町役場新庁舎
1998年(平成10) 撮影(北谷町公文書館蔵)

新庁舎(桑江226番地)は基地返還を見込んだ上で、キャンプレスター基地の中心部に敷地及びアクセス道を米軍と共同使用する形で建設されました。
平和祈念展 北谷町公文書館
美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ
2015年(平成27) 撮影(北谷町役場町長室蔵)

1994年(平成6)に美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ開発基本指針を策定し、北谷町の産業振興や雇用の場の確保と地域活性化を目的としたリゾート産業の推進を図りました。1997年(平成9) 7月に映画館の開業を皮切りに様々な商業施設が立ち並ぶ賑わいのあるまちが形成されました。
平和祈念展 北谷町公文書館
北谷フィッシャリーナ
2014年(平成26) 撮影(北谷町役場町長室蔵)

西海岸一帯の更なる活性化と水産業の振興等を目的としてフィッシャリーナ整備事業が行われました。
平和祈念展 北谷町公文書館
桑江・伊平地区
2014年(平成26) 撮影(北谷町役場町長室蔵)

桑江伊平土地区画整理事業は、2003年(平成15) 3月に軍用地から返還された区域が大部分で、返還に先立ち建設された町役場庁舎を中心とした町政業務拠点および商業地と住宅地が近接し、自然と調和した市街地を形成しています。